緊急寄稿  現在寄稿している読み物の他、過去の寄稿ものの中では 「名古屋競輪騒擾事件①」が毎日のように掘り起こされて 読者が数多くなっています、そこで急遽、煩わしい過去の 寄稿の探索にいくらかの助けになればと考え此処に再考し 新しく、記憶を呼び起こしながら記しました。  是非、真実、見た目の現実の事件を後世に残したい一念 で二回にわたって発表しました。是非後世に真実をお伝え 下され事お願いします。万一当時の観客がいたらご連絡下 さる事お待ちしています。     (美雪伸=加藤伸) 戦前、戦中、戦後の証言 「随筆 今、昔くらし物語」14     なるがままに流されて  「」  今回は平成12年5月に発表した「名古屋競輪騒擾事件」に ついて再度寄稿して見たい。  日本国内競輪場発祥は小倉競輪場で本来福岡国体開催で昭和 23年(1948)11月20日でほ500バンクだったが以 後数年後400バンクに修理した。その後各地で競輪場建設が 続いた。次いで神奈川県川崎市川崎競輪場で昭和24(194 9)年4月21日開催。遅れる事半年後、名古屋競輪場は昭和 24(1949)年10月24日名古屋市中村区中村公演北側 へ完成、中央に池があって400バンクの(豊橋競輪)は33 0バンクで選手は抵抗があったらしく、名古屋は400バンク で、客は精々300人位、入り口右手に発売所があったのみで 無論手売りの1から8枠まである13人1レーオンライス仕組 みで投票券は単、複勝88(記憶)まであった時代。  開催から一週間もたたぬ29日(土曜日)午後3時頃の10 Rか、11Rだった記憶。発走場は北正面、手持ちで多くの人 が此処に待機し、発走は一人一人が後ろを持つ、ピストルの 発射でスタート、固定式ではないので新人、成績不良者が先頭 をひくが。  ドーンが鳴って先頭を斬る選手が中々いない(当時は先頭固 定ではないレース)向こう正面で中堅選手が杉浦某選手が四、 五人の無名選手を引き連れて快走、後段組は本命の依知(えち) 某選手ら五人の集団で周回にあって行く、観客は次第に不安に 追いついてレース終了が今日に限って後一周となっても先頭 との差は100mの差、観衆からは怒号が飛ぶ 「依知、追いつけ、届かんぞ、馬鹿野郎」 「依知の馬鹿野郎」 「何してやがる、追いつけ」 「八百長だ」 と発走台付近から出た言葉に全体が一斉にガヤ就いた 「第10レースの結果を申し上げます、一着〇○二着〇○、 でした勝車券は〇○と○○(氏名記憶なし)でした。  と発表されて暫くシーンとした場内は、発走場付近、観客の 南一番端辺りから 「八百長だ、やり直せ」 と多くの声が上がった  投票結果は数万円の大穴券で、何故この場の大穴になったの かは誰にも理解出来る、先頭車と本命集団の差が大きく離れ過 ぎのため後団(本命集団)が遂に追いつけず大穴結果を呼んだ 訳、当時の発売所は一棟のみで1から8までで一周出来た平屋 建物のみで、それでも受け取り穴へ行った者は二人だけ、その 人は数十万円の配当金を手にして帰って行った。  それからその発券棟の周囲に数十人の人が集まり出した、 「八百長だ、金返せ」 「金返せ」 と云いながら数百人の集団になった。こちらと「発走責任者を 出せ」と、観客が二分されて騒ぎ出した。  この時誰もが思い出したのは数週間前の「川崎競輪場焼き打 ち事件」だった。大抵こういう場合「扇動者」が数人存在して いるのである。川崎の場合は投票所へ発走表を束ねて放火した ものでその隙に現金数十万円が何者かによって盗まれたと云う 新聞報道があったばかり、皆がそれを思い出した、段々騒ぎが 大きくなっていった。私もあちこち歩き、覗きしていたが、 矢張り何者かが投票所へ火のついた発走表の束に火をつけて 小さな穴へ放り込んだ、しかし中の女従業員は必死で、叩いて 消した(ほうき)燃え上がる気配はない。                    2016・8・24  

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